世田谷区太子堂2・3丁目地区で住民参加の修復型まちづくりを30年にわたり先導してきた梅津政之輔さん。
その取り組みは、対話型で築くコミュニティデザインにつながるものでもあります。
コミュニティデザイナーの山崎亮さんとともに、太子堂を訪れ、お話を伺いました。



その2  インタビュー


梅津政之輔 太子堂2・3丁目地区まちづくり協議会元副会長

1930年東京都江東区生まれ。神奈川県立翠嵐高校中退。沖電気工業梶A(社)化学経済研究所、叶ホ油化学新聞社などに勤務。著書に『石油化学工業10年史』(石油化学工業協会)、『日本の化学工業戦後30年のあゆみ』(共著:日本化学工業協会)、『化学製品の実際知識』(共著:東洋経済新報社)など。

山崎 亮 studio-L代表

1973年愛知県生まれ。大阪府立大学大学院(地域生態工学専攻)修了後、 SEN環境計画室勤務。2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。 主な著書『コミュニティデザイン』『コミュニティデザインの時代(中公新書)』ほか。


太子堂2・3丁目地区のまちづくり

梅津─1975年、世田谷区では革新系の大場区長が当選し、地方自治法が改正されて、地域計画をつくることが義務付けられました。
太子堂の住民参加のまちづくりは、防災上の問題と結びつけて、住民参加のモデル地区に選ばれたのがきっかけです。
世田谷区は、防災対策として建物の不燃化、道路の拡幅などハードの課題だけを挙げたのですが、私はコミュニティづくりといったソフトのまちづくりも合わせて行うべきだと言いました。
以前に、吉村昭の『関東大震災』を読んで、神田(和泉町、佐久間町)の住民が結束して延焼を食い止めたという経験に感動していたことがきっかけの一つです。
協議会を作るにあたり、4つの原則を出しました。@住民主体、A地域に開かれた組織、B合意形成に努める、Cハードだけではなくソフトのまちづくりをしよう、です。
まずは「まち歩き」をして問題点を共有することから始めました。その次に「きつねまつり」をやりました。

山崎─「まち歩き」というのは、当時、東工大の院生だった木下勇さんが、この地域で「ワークショップ」をやりましょうと提案したときに、梅津さんがいかがわしく思って、大学生たちが「まち歩き」と言った方がいいんじゃないかと作戦を練ったところから始まったと原稿に書いてあって、「面白いな」と思ってたんです。

梅津─そうです。木下勇さんは、アメリカのワークショップの手法を都市計画に用いるこを初めて紹介した青木先生の研究室にいたので、ワークショップをやりたくてしょうがなかった訳です。
「きつねまつり」という名前をつけたのも若い人の提案でした。「太子堂橋の子づれきつね」という民話から命名したもので、1984年に第1回を実施しました。
子供たちを対象にしたオリエンテーリングを行いましたが、当初は50人くらい参加してくれました。あちこちに貼り出されたクイズを解いて回ると、ノートをもらえるようにしたりしました。そうするとお母さんもついて回ってたり、近所のおじさんが出てきて一緒に答えを考えてくれたりと、にぎやかでした。

1985年には烏山川緑道の再生計画を区に提案しました。事前にこの提案を全戸配布して知らせた時には反対意見は出なかったんですが、朝日新聞に「川の上に川」と取り上げられたことで、400名の署名にも及ぶ反対運動が起きました。
協議会は反対派の人に呼びかけて会議をもちました。なぜ反対かと聞くといろんな意見が出てきて、参加者同士が言いたいことを言い合って喧嘩にもなりました。
そこで「皆さんが反対なら撤回しますが、今のままでもいいんですか?」と尋ねると「そうはいかない」ということで、ワークショップをやることになったんです。その際には木下さんに教えてもらって、皆の意見をポストイットに書きだしました。これは、参加者同士の意見が共有できて効果がありました。

視察に来た方を緑道に案内すると、「いい緑道ですね」「こんな素敵な緑道をつくるのに反対意見があったなんて信じられない」と言われますが、出来上がったものを褒めていただくより、住民同士の意見の対立を住民自身が話合いで解決したことを褒めてください、といつも言っています。


修復型まちづくりは効率が悪い?

梅津─役所(特に旧建設省や東京都)からは修復型のまちづくりは、時間がかかる、効率が悪い、いつ完成するかわからない、と否定的な意見を受けますが、太子堂では依然として修復型でやってきました。
今、地域を担当しているまちづくり課長は14人目ですが、人によってやり方は違います。道路事業など強制力を持った政策には、私は抵抗しています。なぜかというと、生活を破壊される人がでてくるからです。心の病気になる人も実際にいました。
太子堂の修復型まちづくりは確かに効率が悪いですが、大規模再開発が効率がよいかというと、そうではありません。
三軒茶屋駅前の27階建てのキャロットタワーは、計画から完成までに17年かかっています。1.5haの敷地に地権者が67人いるうち、35%の人が権利変換で出て行きました。太子堂でまちづくりを始めた時の2・3丁目の人口は8300人、面積は35.6haです。目的は違いますが、面積・人口を比較して考えたら、30年かかったとしても、単純に効率が悪いと批判されるのは、正直、疑問です。
しかも、バブル経済が崩壊して建設資金の不足を補うために世田谷区が45億円で26階のワンフロアを買わざるを得なかったという事情を考えると、密集市街地の修復型のまちづくりを目先の効率だけで判断しないでほしいと思います。

東京の外周部には木賃アパート地帯がベルト状にあり、太子堂もその一角を成しています。今はマンションなどに建て替わってきているので目立ちませんが、木造アパートには高齢者がたくさん住んでいます。
防災上、不燃化するのはよいことですが、そういった人たちが追い出されてしまうことになるのです。
最近、木造アパートから千葉に引っ越された方に偶然会ったのですが、通院のためにわざわざ太子堂に来るというのです。
歳を取れば取るほど、地元への愛着があります。そういう気持ちを大事にしたいと思うのです。

私は空襲を経験していますので、まわりが火災になったら逃げられないことを経験しています。だから木造のアパートをコンクリートのマンションに建て替えるのは、防災機能を高めることだと理解しているのですが、木造のアパートに住んでいる人たちと一緒に住み続けていくにはどうすべきかを考えざるを得ません。そういう意味で、強制力を伴うまちづくり事業には抵抗しています。
一方で、まちづくり防災対策としていろいろやっていると、私のことを気に入らない人が出てきます。住民からは行政の手先だと思われ、行政からは抵抗勢力だとみなされて、30年以上やっていると満身創痍という感じです。

この町は密集しているために、火災が起きたら大変なところですが、今まで大きな延焼はありません。
その訳は、ボヤの段階で消すことができるコミュニティがあるからです。
庶民のまちとしてのアイデンティティを残しながら、防災性能を高めるようにしたいと思いますが、まだ模索している段階です。


山崎亮さんが聞く

山崎─今はどんな悩みがありますか?

梅津─今の協議会のメンバーは60〜70歳が多く、一番若かった人には30代の人がいました。今は引っ越してしまったのですが、若い人は考え方が全然違いました。「無償でやる活動は納得できない」「環境が悪くなったらここに住み続ける必要はないと思う」と言われました。そう言われると何とも言いようがないです。
若い後継者がいないことは悩みですが、コンサルをやっている吉川仁さんが、「地元にいなくても、梅津さんは確かに後継者を育てている」と言ってくれたことはありがたかった。学生も含め、ここで学んだことを他の地域で活かして活動している人がいるということで、少しホッとしました。

今回の本で、これからのことについて気がかりな点を書きましたが、「こうあるべきだ」といった私なりの考えを明確には書きませんでした。それは、次の世代の方に考えてほしいからです。
まちづくりは20年、30年かけて考えていくものなので、若い人が考え行動しなきゃだめです。年寄がやっていたんでは、時代の変化に対応できない。

山崎─原稿に「討議が難しい、面白くないと欠席する人が増え、限られた人だけになってしまう」というのも悩みだと書かれていましたが、実に正直な気持ちだと思いました。

梅津─これは引き継ぎ書ですから、恰好つけずに書きました。どう読まれるかはわかりませんが。

山崎─専門知識をつけた人だけで話し合っていると「一部の人だけでやっている」と言われてしまうと思いますが、それについてはどう考えるようにしていますか?

梅津─ある程度割り切らざるを得ないと思っています。
合意を形成するには時間がかかります。協議会の中では合意ができても、住民全員の賛成が得られるとは限りません。重要な事項については協議会ニュースを発行して、皆さんの意見を聞いてから区に提案するようにしています。どこまで読んでくれているかはわかりませんが、4300世帯全戸に配っています。

山崎─まちづくりをやっていると、いろんな場に出なければならないのに、夜も話合いとは、大変でしょう?

梅津─協議会をつくった当初は定例会議とは別に運営会議を設けて、月2回やりました。まだ勤めていたころは、若い人に注意をしっぱなしではまずいので、たまには愚痴を聞くために飲みに行かないといけないし、役所と話をするには都市計画の勉強もしなければならない。だから時間がなくて辛かったです。でも自分の発言に責任を持ってやっていましたし、教えてくれる専門家がいて、皆に支えられながらやってきました。

山崎─住民からは行政の手先だと思われ、行政からは抵抗勢力とみられるという微妙な立場で、見たくないものも目に入ってくるなかで、それらをどうやって処理してきたのですか?

梅津─やっぱりこの町の人たちと付き合っていて面白いし、この町が好きだから、やってこれたのですね。
私は江東区生まれの下町育ちです。おっちょこちょいでおせっかいで、何かあると黙っていられないタチなんです。
まちづくりは絶対一人ではできません。いろんな意見の違いがあるし、対立は避けられません。対立を避けるようなまちづくりは本物ではないと思っています。対立を単に妥協するのではなく、どう乗り越えるかということを考えるまちづくりにしていきたいと思います。
まちは時代とともに変化します。むしろ変化していくから生き残れるのです。
ヨーロッパでは古い町並みを残すことに誇りを持っています。でも何も変わっていないかというとそうではなくて、外見は変わっていなくても、中は変えているんです。あるいは住み方や価値観も変えています。まちづくりでは、そこを見ていかなければいけないと思います。

2014.12.1 文責:編集部 中木

その1 太子堂のまち案内

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